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レポート > 詳細-011 |
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■第1回龍馬講話と喜界島三味線コンサート |
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薩長同盟実現のため長州に向かう途中
龍馬が泊った青島で村上先生の講話を聞く |
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2012年7月7日、長浜なんとかしょうぜ委員会が主催する「第1回龍馬講話と喜界島三味線コンサート」が開催された。参加者は37名。開催場所は、愛媛県大洲市の長浜から14km沖合にある青島。龍馬と青島の関係はほとんど知られていないが、龍馬は慶応元年(1865)9月28日、薩長同盟実現のため、長州へ向かう途中、青島に立ち寄り1泊している。今回、青島での龍馬講話は、大洲史談会会長 村上恒夫先生が「龍馬と青島」をテーマにお話をされた。その後、三好輝さんの喜界島三味線と薩摩琵琶の弾き語りがあった。 |
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最後に、村上先生を中心に参加者全員で記念撮影。 |
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午前10:15から長浜港青島丸乗り場で受付開始。長浜から青島までの所要時間は約45分。”今日は西風の高い波で揺れるよ!”と船に乗るなり船員さんに言われ不安のまま長浜港を午前11:00(臨時便)に出発する。通常、青島丸は1日2往復運航している。
午前便 長浜発7:00(7:30)→7:45(8:15)青島着 青島発7:50(8:30)→8:35(9:15)長浜着
午後便 長浜発14:30→15:15青島着 青島発16:15→17:00長浜着
*( )内は、冬期11月1日〜3月31日。
旅客運賃は、大人665円、小人335円 乗船切符は船内でお買い求めください。
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やはり船員さんが言われた通り、かなり揺れたが気分が悪くなる前に青島到着。船から撮影した青島(左上)と青島の港。 青島は1639(寛永16)年、播州坂越より、赤城氏の一族16軒が開拓移住したところである。大洲藩の放牧地で馬島といい、沖の水無瀬島(みなせじま)ともいった。此島を南方から眺めると、島の南面に光線を受け松樹等が青々と見える。1640(寛永17)年、藩主父子が来島、鹿狩をした時「島の名を青島と呼ぶべし」と言ったので青島と改めた。(開場で展示されていた資料より) |
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可愛い猫や凛々しい猫などネコちゃんが港でお出迎えです。青島は猫が多いよ!と聞いていたが、確かに多い。もしかして島民より猫の方が多いのでは? |
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青島に上陸後、”村上先生に船酔いしませんでしたか?”とお聞きすると私は酔わないんだよ!と返事があり安心する。全員集まったところで、長浜なんとかしょうぜ委員会の代表 濱田毅さん(写真右)からスケジュールを案内。実は濱田さん船の中では船酔いで元気がなく心配していましたが、マイクを持つなり、元気な声で話され、気持ちの切り替えがすごい! |
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大正13年、青島沖2kmを漂流中の船を救助しようとして遭難した13人の勇士を、NHK松山局の亀井さんが「十三勇士の墓」でお話をされた。 |
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午後1:10頃、「龍馬と青島」と題して、村上恒夫先生の講話が始まった。はじめに龍馬と青島の関係(村上先生から頂いた資料を下記で詳しく掲載)を話され、龍馬の生い立ちや脱藩の道など約50分、講話をされた。その後、三好輝さんの喜界島三味線と薩摩琵琶の弾き語りが約1時間半行われた。わしは薩摩琵琶の弾き語りに感動したぜよ。 |
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●薩長連合
脱藩後の龍馬は、その後わずか5年間の生涯の間に、もう一度長浜を訪れている。これは「坂本龍馬手帳摘要」という文書により明らかなもので、この文書を記録したのは、高知佐川出身の土方直行である。その説明によると、「この手帳は小さき普通の横巻にて、坂本直(龍馬の姉、千鶴の子、坂本太郎のこと。のちに龍馬の跡を継ぐ)氏の蔵本を借覧せり」(文字は一部改める。以下同じ)とあり、巻紙風のものを折りたたんだものであったらしい。(なお原本は現在所在不明。大正2年、釧路市の大火の際に焼失したものと思われる。宮地佐一郎偏『坂本龍馬全集』による。)
さらに説明によれば、
「ーーー龍馬氏の心覚えに止まる略記。ーーー巻首と考え披見すればさかさまになるところあり。
また取り直して巻尾と巻首として見れば読むべきところあり。ーーー縦横乱字、真に磊々落々(らいらいらくらく)の性、今なお昔相見るの感ありーーー」
とあって、日付けもまちまちで、判断しながら読まなければならないが、それだけに龍馬だけにしかわからない、大切なメモ書きであったと考えられ、その内容に興味を覚えさせられる。
さて、その記述であるが、かなり長いので、かんじんの長浜に関する部分を、原文のまま抜き書きする。
(同巻ヲ倒二シテ巻首ヨリノ中程二突然ト左ノ数行アリ)
廿三日 将軍坂二下ル ○廿三日ハ乙丑ノ九月ナリ校正者識
廿四日夜 大阪二下ル。
廿五日
廿六日 兵庫
廿七日
廿八日 予州青島泊。
廿九日 上関
十月
三 宮市
これは一目で旅行の記録で、兵庫からは船であることがわかる。そして「乙丑」とは、慶応元年(1865)のことで、当時の龍馬の活動の記録と合わせて、その行動を考察しなければならない。
脱藩ののち、龍馬は江戸で勝海舟に会い啓発される。勝は神戸に海軍操練所をつくり、脱藩浪人たちを集めて、新しい時代を目指した教育を始める。
幕府はこの動きを警戒し、勝は免職となり、江戸へ召還される。危険を感じた龍馬は長崎へ飛び、日本最初の商社といわれる、亀山社中の設立に奔走していた。そしてまた、幕府という強力な権力を倒すには、勤王緒藩の結束こそ緊要と、とりわけ犬猿の仲であった二大雄藩、薩摩と長州の同盟を画策して、その代表、西郷隆盛と桂小五郎に近づき、説得に努めている頃であった。
この年の四月、西郷隆盛・小松帯刀らとともに、薩摩藩の胡蝶丸で鹿児島に赴いた龍馬は、近代兵器を備え、幕府に媚びず、独自の「大決断策」を推進しようとしている薩摩の姿勢を見定め、この藩を長州と結ばす、すなわち「薩長連合」の構想を描いていた。
翌月大宰府を訪ねた龍馬は、三条実美や東久世道禧(みちとみ)らと会談している。内容は明らかでないが、道禧が
「土州藩坂本龍馬面会。偉人なり。奇説家なり」
と記録しているのを見ると、実現不可能と思われていた薩長連合構想をぶったのかもしれない。
同志の中岡慎太郎は薩摩を説き、龍馬は長州をなだめ、ようやく和解の空気が見え、閏五月十六日、西郷は桂と会うため鹿児島を出航した。ところが、途中豊後の佐賀関へ寄港したとき、大久保利通からの上京を求める通知を受けると、西郷はあっさりと予定を変更し、大坂へと直行してしまった。
中岡は単身下関に着き、やむにやまれぬ事情を説明したが、長州の怒りは爆発、おさまりそうになかった。ここに維新の条件ともいうべき薩長同盟は挫折するのか。
ここからが龍馬の本領発揮である。彼はあきらめない。薩摩の説得のため上京すると、約束違反の西郷をなじり、ここで、長州のために薩摩名義で兵器を買い与える約束を承認させた。
当時幕府と戦争状態の長州は、長崎奉行所から武器購入の承認を得ることができなかった。
これを薩摩にやらせようとの策であった。
違約を詫びる西郷の態度に、ようやく薩長和解の道が開けるとの自身をもち、龍馬は再度長州を説得すべく、京都を立ち、大坂から船に乗った。その旅行記が、前記の「坂本龍馬手帳摘要」の記述である。
●青島に一泊した龍馬
さて、その文書の記述を追うと、
「廿三日、将軍坂二下ル ○廿三日ハ乙丑ノ九月ナリ校正者識」
とは、慶応元年(1865)九月二十三日、将軍家茂が京都から大坂へ下ったことを示す。
二日前、家茂は参内して、防長処分のことを上奏している。高杉晋作らによって立ち上がった長州と幕府の戦争は必至であった。
「廿四日夜 大阪二下ル」
とあるは、龍馬が京都を立ち、大阪に着いたことを示している。
「廿五日」「廿六日 兵庫」「廿七日」
とあるは、二十五陸路を行き、二十六日兵庫(神戸)に着き宿泊し、記事にはないが、二十七日神戸を出航したもの
と思われる。船は薩摩藩の蒸気船、胡蝶丸(146トン)である。そして問題の、
「廿八日 予州青島泊」
の記事に続く。このことについては後述する。
「廿九日 上関」
とは、二十九日に、現在の山口県熊毛群上関町に着いたことを示す。先に「龍馬脱藩」のところでも書いたように、
上関は四国と中国を結ぶ交通の要所であった。そして天然の良港となるこの地は、瀬戸内海航路の重要拠点でもあった。
「十月 三 宮市」
とあるのは、十月の三日に三田尻の宮市(山口県防府市)に着いたことを示している。ここは招賢関と称する、
藩の会議所があった。この旅行の目的地であったろう。
さて、もとにもどって、
「廿八日 予州青島泊」
について考察しなければならない。青島とは、長浜の沖十三・五キロの伊予灘に浮かぶ青島あることはいうまでもない。
かつて馬島と呼ばれたこの島は、大洲藩の馬の飼育場であったが、寛永十六年(1639)播州(兵庫県)の与七郎という漁師が、一族とともに移り住み、漁業と開墾に従事し、以来次第に人口も増え、幕末の頃には、300人以上の島民がいたものと想像される。(現在は五五人)
また、この島の港は適当な水深があり、大船の仮泊に適し、避難港として、また九州大名の参勤交代の仮泊地としても利用されていた。このようなことから、胡蝶丸が仮泊したものと思われる。
蒸気船の停泊が、青島の島民にとってどれほどの衝撃であったかを想像してみよう。ペリーが四隻の黒船(蒸気船)を率いて浦賀へ来て、日本中を震え上らせてから十二年、薩摩藩籍の旗は揚げているが、蒸気船が青島の港に入り、一晩停泊したのである。まさに、青島始まって以来の大騒ぎになったことであろう。
ところで、そのとき龍馬は、二日間の窮屈な船から降り、新鮮な食物を求めて、島に上がり、宿をとったものと想像される。
どの家に泊ったのだろうか。島には、そのときの龍馬に関する逸話は残っていないだろうか。知りたいところである。
村上恒夫先生の資料「坂本龍馬と青島」より |
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<お知らせ>
ケーブルネットワーク西瀬戸の「ワイドニュース西瀬戸」で「龍馬講話と喜界島三味線コンサート」が紹介されました。インターネットで視聴できます。2012年7月放送分の「13」をクリックしてください。
http://www.cnw.ne.jp/cnwmain.html |
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