|
|
レポート > 詳細-009 |
|
|
■龍馬飛騰ウオーク・梼原町コース(脱藩コース) |
|
150年前、龍馬が脱藩した同じ日に
国境「韮ヶ峠」を目指して歩く
|
|
2012年3月26日、龍馬ふるさと博推進協議会主催の坂本龍馬脱藩150年記念イベント「龍馬飛騰ウオーク・梼原町コース(脱藩コース)」が開催された。このコースは、土佐と伊予の国境「韮ヶ峠」を目指して歩く龍馬脱藩のクライマックスです。この日、朝から雪が降りとても寒かった。スタート地点は、雪のため四万川交流センターから茶や谷に変更。150年前のこの日に龍馬が日本の夜明けを夢見て、この道を命がけで駆け抜けたことを思うと歩きたい気持ちは熱くなっていた。目指すは国境「韮ヶ峠」、さあ〜脱藩じゃ! |
|
|
|
|
受付会場の四万川交流センター。雪がぱらぱら降る中、はじめに高知県庁の田村知之さんから龍馬脱藩ウォークの説明。その後、全国龍馬社中の会長 橋本邦健さんとウオーキングゲストの勅使川原郁恵さんがご挨拶。勅使川原さんは元ショートトラックスピードスケート選手として過去3回のオリンピックに出場された方です。 |
|
|
四万川交流センターから茶や谷までバスで移動。茶や谷にあるお菓子とパンのお店「D'apan屋」の前を歩く。このお店は、町おこしにたいへん貢献されている梼原龍馬会の前会長
下元秀俊さんのお店です。 |
|
|
茶や谷にある梼原町指定文化財・茶道の案内版にはこのようなことが書かれている。「藩政時代からあり、現在町内に13棟保存されている。建物は、2間(約3.6m)に1間藩(約2.72m)位の木造平屋建、カヤぶき屋根、板敷きの素朴な形式である。木像、石像等を安置して諸仏を祀り、津野氏の霊を慰め、行路の人々に茶菓の接待を地区民が輪番で行い、信仰と心情と社交の場として、うるわしい役割を果たしてきた。現在も行っている所もある。」 |
|
|
「松ヶ峠番所跡」で一休みです。松ヶ峠番所跡の案内版にはこのようなことが書かれている。「この番所は、土予の交通の北の要所で、幕末の英雄 坂本龍馬は同志沢村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日高知を出奔し25日梼原に到着、その夜梼原の勤王の志士
那須俊平・信吾父子の家に泊まり、翌26日未明、俊平・信吾父子の道案内により宮野々の関を抜け、四万川は茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて予土県境峠・韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。その祭「坂本龍馬まかり通る」と名のり、堂々とこの番所をぬけたという地元の口伝が残されている。また新谷藩(現在の愛媛県大洲市)藩士で、後に岩倉具視の懐刀といわれ、宮内省に勤め大正天皇の御養育係となり、明治憲法の起草者としても名が知られる香渡る晋も土佐への藩用にて通った番所である。」 |
|
|
雪が少し積もっています。このときほんと寒かった。ここでちょっと一休みです。 |
|
|
ここは、韮ヶ峠への登り口です。案内板にこのようなことが書かれている。「幕末の英雄 坂本龍馬は同志澤村惣之丞とともに、文久二年(1862)三月二十四日に高知を出奔し、二十五日梼原に到着、その夜、梼原の勤王の志士那須俊平・信吾父子の家に泊まり、翌二十六日未明、俊平・信吾父子の案内により宮野々番所、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜け、予土県境峠韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)へ脱藩した。この地は、その韮ヶ峠への登り口です。」 |
|
|
韮ヶ峠までもう少しだが急な上りの山道が続く、きついところです。 |
|
|
左:やっとゴールの韮ヶ峠が見えてきた。右:ここがゴールの韮ヶ峠です。到着したとき、フォークデュオ「OTOGI」のライブをされていた。OTOGIさんは龍馬脱藩の唄「蒼い風」を歌われている。 |
|
|
|
Copyright(c) 2024 Tanae All Right Reserved. |