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脱藩事典 > 詳細-016 |
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■吉村虎太郎像 |
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土佐藩脱藩第一号である吉村虎太郎の銅像は、高知県の津野町役場西庁舎(旧東津野村役場)近くの高台にある。この銅像は村内外の有志の方により昭和43年12月22日につくられた。制作者は、岩崎弥太郎(安芸市)、お龍・君枝姉妹像(芸西村)、維新の門群像(梼原町)、ジョン万群像(土佐清水市)、長宗我部元親(高知市)など、銅像を数多く作り上げた銅像作家・濱田浩造氏である。詳しくは、銅像の側にある石碑に刻まれた文章をお読みください。 |
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吉村虎太郎先生
先生は天保八年四月十八日芳生野村(現在本村芳野)庄屋吉村太平の長男として生まれました。非常な秀才でわずか十一才で北川村(現在本村北川)庄屋となり、その後須崎浦(現在須崎市須崎町)庄屋下分村(現在須崎市下分)庄屋を経て、安政六年梼原村(現在梼原町梼原)庄屋となり各地で治績をあげましたが文久元年に武市瑞山とともに土佐勤王党を組織して勤王に奔走するようになりました。文久二年正月にはひそかに防長を遊歴九州に渡り平野国臣にあい「島津久光の入京の機に挙兵する」ことを約束して帰藩武市瑞山を説きましたが瑞山は「藩を挙げてやるべきだがまだ藩論がきまっていない」といって応じませんでしたので、坂本龍馬に脱藩をすすめ自らはいち早く宮地宜蔵と二人で脱藩平野の義挙に加わろうとしましたが寺田屋の変にあい舟牢で高知に送りかえされ十二月まで獄窓で過ごしました。
文久三年二月再び上京王事に奔走八月には明治天皇の叔父君に当る中山忠光卿にすすめて大和義挙と計画忠光卿を隊長に自らは総裁となっていわゆる天誅組を組織し天皇の大和行幸に先がけて大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし江戸幕府直轄の五条(現在の奈良県五条市)代官を襲撃しました。その時朝議が一変し大和行幸はとりやめになりましたので事志を違ってしまいました。しかしこれまできたからには初志を貫徹しようと高取城の焼討をはかりました。この時不運にも味方の弾丸にあたり負傷し戦は惨敗に終りました。
これより十津川に転戦しましたが時に利あらず九月二十七日鷲家谷(現在奈良県東吉野村鷲家谷)石の本に金谷健吉一隊の銃弾のもとに「吉野山風に乱るるもみじ葉は我が打つ太刀の血煙とみよ」の辞世を残し二十七才の若さで散華しました。
この義挙は数多い維新の動きの中で千余の兵力をもって堂々たる倒幕第一陣であり、この烽火によって全国に倒幕の運動はくり広げられることとなり大政奉還を見、国民平等の維新は成就されたのであり、その業績は高く評価せられています。 なお本村には能津生れで芳生野に養子に来て吉村虎太郎先生と同行をともにしたが惜しくも大和義挙の十六日前に病気でたおれた宮地宜蔵先生や北川に生まれ忠勇組長として元治元年七月二十一日天王山の戦に散った松山深蔵先生同じく北川生れで吉村虎太郎先生の義兄にあたり元治元年忠勇組伍長として九門の変に活躍七月十七日傷を負って鷹司邸で切腹して果てた上岡胆治先生等の志士も居られますが明治百年記念事業としてはこれら志士を代表し吉村先生の銅像建設を計画し募金運動を展開しましたところ裏面のとおり村内外の有志の方により多大の寄附を頂戴し昭和四十三年十二月二十二日めでたく竣工除幕いたしました。
ここに御寄附者の皆様に衷心からお礼を申し上げます。
吉村虎太郎先生銅像建設期成同盟会 |
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