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脱藩事典 > 詳細-015 |
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■飛翔の像 |
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脱藩のとき、河辺を通った坂本龍馬、沢村惣之丞、那須俊平の顕彰碑「飛翔の像」は、愛媛県大洲市河辺にある坂本龍馬脱藩之日記念館の近くに建っている。中央に坂本龍馬、左に沢村惣之丞、右に那須俊平である。肩に刀をかついた龍馬像は珍しい。この銅像は、平成十年三月につくられている。詳しくは、顕彰碑に刻まれた文章をお読みください。 |
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新しい時代の予感が28歳の龍馬の心をとらえた。脱藩という大罪を犯して、大望のために土佐を捨て、河辺村榎ヶ峠に至ったのは、文久2年3月26日。近代日本の誕生に命を賭けた龍馬の旅は、ここ河辺村から始まった。この坂本龍馬脱藩の道は、平成8年11月1日に文化庁の「歴史の道百選」に選定された。私たち河辺村民は、この道を文化遺産として大切に保存することを誓い、ここに龍馬、惣之丞、俊平の顕彰碑「飛翔の像」を建立する。
平成10年3月吉日
河辺村長 大野 富士男
坂本 龍馬(さかもと りょうま)1835〜1867
高知城下の郷士の家に生まれる。文久2年(1862)3月24日同志の沢村惣之丞とともに土佐を脱藩した。翌日梼原村の那須俊平・信吾父子の家に宿泊し、3月26日俊平の道案内で予・土国境を越え、榎ヶ峠から河辺村に入る。泉ヶ峠で一泊したあと、宿間村(現在五十崎町)で俊平と別れ、長浜から下関へ向かった。その後、新しい日本をつくるため奔走したが、京都近江屋で中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、維新を見ることなく闘死した。33歳。
沢村 惣之丞(さわむら そうのじょう)1843〜1868
土佐郡潮江村(現在高知市)の地下浪人の家に生まれる。文久2年(1862)龍馬に先立ち土佐を脱藩した。3月16日に下関の白石正一郎宅で吉村虎太郎、久坂玄瑞らと画策後、危険を冒して土佐に帰り、3月24日、龍馬を伴って再度脱藩した。名を関雄之助と改め、土佐海援隊では龍馬の片腕となって活躍したが、長崎で薩摩藩士を誤殺、その責を負うて自刃した。26歳。
龍馬脱藩の道は、惣之丞の口述を記録した文書に基づいている。
那須 俊平(なす しゅんぺい)1807〜1864
高岡郡梼原村(現在梼原町)の郷士。文久2年(1862)3月25日、土佐を脱藩した坂本龍馬と沢村惣之丞が那須家に宿泊した。翌日、那須俊平・信吾父子が道案内をして梼原を立ち、予・土国境で信吾は引き返したが、俊平は伊予路に入り、河村村を通って宿間村(現在五十崎町)まで龍馬らを案内した。その後、自らも脱藩して京都へ上り、長州の忠勇隊に入って活躍したが、禁門の変で討たれた。58歳。 |
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