高知県と愛媛県の県境・韮ヶ峠を越えて、少し歩くと「史跡 龍馬脱藩関所跡」がある。
まだ明けやらぬこの峠は、雲海から浮かび上った島のように見えた「おはようさんです。どうか通していただきたい。」あまり大きな店のようではないが老舗の番頭らしい身なりの一人が通行手形をさし出し腰をかがめ軽く頭を下げた。早起きして夜の明けぬ間に伊予のどこかに行くのであろう。「その方達はどこへ参るのか」役人の一人が差又のついた棒を片手に手形を取ってたしかめた。手形と顔を交互に見つめて「ふんふん」とうなずき通ってよいと促がした。他の旅人数人も同じように手形を見ながら通るよう役人は命じた。その中には商人をはじめ職人、旅芸人等の一行数人であった。朝早く関を越すためにこの時刻は通行人が多くなるだろう。一行の中に武士らしい者はいなかった。
龍馬脱藩がしたとの報は土佐藩より国境に附する四国中の藩に早飛脚(今の郵便)でふれ(厳戒令)が出されたのは言うまでもない。京を目指す龍馬を見つけ次第討ち取れの命はこの関所でも例外ではなかった。
しかし土佐の宮野々の関を逃がれ同志の力を借りて脱藩の道を進む龍馬はこの関で捕まるわけにはゆかない。この数人の中に龍馬が居たかどうかは定かでないが、もし居たとしたらどんな姿であったろうか真相はようとして解明出来ない。(こんな場面があったかも)
時に文久2年(1862年)3月26日、龍馬がこの関を逃がれたとされる未明の時刻であった。以後、龍馬らしい人物を見た者はいない。33年と云う短い生涯を閉じたのであるが、何とはかない人だったのか。いたるところに立ちふさがる難関を通りぬける男を支えたものは、もちろん同志の力と天の声をきき、一命を賭けた信念と炎のような身体であった。正に火の玉そのものであったにちがいない。ここの関所を逃がれ龍馬は維新の道をまっしぐらに進むことになるのだが、今は石組だけが残る史跡です。この石の上に立ち住時を偲ぶ時、袴のすそがちぎれた龍馬が今の時代に何を語りかけてくるのか皆さんもとくと聞いてやってください。
脱藩関所跡の案内版より |