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吉村 虎太郎
吉村虎太郎 (よしむら とらたろう
(1837〜1863)
芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として産まれる。間崎滄浪の門に学び、肝坦相照らす間となる。安政6年梼原村番人大庄屋として赴任した。武市瑞山らと勤王党を結成、文久2年脱藩して京に上がった。一時捕らわれて牢舎に呷吟する身となったが、出所後再び京に上がり、天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし、八・一八の政変で孤立無縁となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は崩壊、虎太郎も壮絶な戦死を遂げた。
安政4年(1857年)、吉村虎太郎は梼原の庄屋として転任
龍馬より20日早く脱藩した吉村虎太郎は、津野山郷芳生野(現、高岡郡津野町)の庄屋の家に生まれた。天保8年(1837年)の生まれであるから、龍馬よりも2つ年下である。11歳で、父の職を継いで庄屋を勤めたといわれ、少年の頃から非凡な才能があったのであろう。

やがて虎太郎は、高知城下で間崎哲馬の教育を受けた。この間崎哲馬は、藩の命令で須崎に赴任したが、これを追うように、吉村虎太郎も須崎に庄屋として着任して、2人は、終生肝胆相照らす仲となった。
安政4年(1857年)虎太郎は梼原の庄屋として転任した。その屋敷は、現在の梼原高校の位置であった。ここに在任中、剰財を貯蓄して非常の場合に備えるために作った「石金庫」と称されるものが、今も高知城に保存されている。村民のために、献身的に勤めたことを知ることができる。

しかし時の流れは、虎太郎をして、恵まれた庄屋職のままではおかなかった。文久元年(1861年)土佐勤王党主武市瑞山が、国事に奮起すべきことを呼びかけた。虎太郎もこれに参加した。(もっとも、後に清書されたものであろうと思われる勤王党血盟者名簿に、吉村虎太郎の名はない。これは彼が早く脱藩したため、削除したものであろうといわれている。

文久2年(1862年)、吉村虎太郎は脱藩して長州へ
土佐藩脱藩第一号である。


翌年2月、虎太郎は武市瑞山の命を受けて、長州へ向かった。坂本龍馬より1ヶ月前である。龍馬と同じく、虎太郎も久坂玄瑞の熱弁に洗脳されてしまった。そして土佐に帰り、武市瑞山に脱藩を迫ったが、瑞山がこれに応じないのを知ると、虎太郎は自ら脱藩を決行した。(このことは、龍馬脱藩に大きなかかわりがあるので、後に改めて詳述する)

長州に渡った虎太郎は、約1ヶ月後の4月6日、大阪へ上った。その頃薩摩・長州・岡・久留米、そして土佐の志士百余名は、薩摩の島津久光の上京を待ち、大阪城を攻撃する計画を立てていたが、京都に上った島津久光は、討幕の意志などまったくなかった。そればかりではない。4月23日、志士の集まる伏見寺田屋に刺客を向け、有馬新七ら9人を斬殺した。

その翌日、伏見に到着した虎太郎は、薩摩屋敷に閉じ込められ、あえなく捕らわれの身となって、土佐へ送り返されてしまった。悶々の獄中生活を送る虎太郎であるが、その間に、土佐藩に大きな変化が起きる。那須信吾らによって、参政吉田東洋は暗殺され、武市瑞山率いる勤王党の発言力が大きくなっていた。この年の12月25日、虎太郎が許されて出獄できたのも、時勢のなせるところであった。

虎太郎が獄中にある6月2日、彼の屋敷から指呼の距離にある、掛橋家で事件があった。那須家の出で、掛橋家へ養子に入っていた、掛橋和泉が自殺したのである。家が裕福であった彼は、同志の勤王運動を助け、さらに田地を売ろうとして、養母の詰責を受けた。名を挙げて、累が同志に及ぶことを恐れた彼は、祖先の墓地で自殺をした。28歳であった。

もののふの思い詰めたる忠と義と
心ひとつに死出の旅かな

虎太郎が獄を出て、和泉の墓に詣でた時の歌である。

吉村虎太郎ら尊攘派の志士30余名は
京都方広寺に集結し、天誅組を旗揚げ


翌文久3年(1863年)2月15日、京都遊学三ヶ月の許可を得て、虎太郎は土佐を出た。彼も再び帰ることのない、死出の旅であった。
5月20日、尊攘派公喞の姉小路公知が、京都朔平御門前で暗殺された。一方土佐では、6月8日、虎太郎の師である間崎哲馬、後記する平井加尾の兄、平井収二郎らが切腹を命ぜられた。公武合体派の巻き返しである。

8月13日、天皇の大和行幸が発表されると、その翌日、吉村虎太郎ら尊攘派の志士30余名は、この機を逸せず、倒幕の挙に出るべく、京都方広寺に集結した。いわゆる天誅組の旗揚げである。伏見から淀川を下り、大阪に着き、宇治川から泉州境に向かった一行は、17日、観心寺から千早峠を越え、五条にある代官所を襲った。これを降して、大いに意気上がった天誅組であるが、その直後、京都で異変があった。8・18クーデターは失敗し、大和行幸は中止となり、三条実美ら七卿は、長州藩に護られて西に下った。

桜井寺に本陣を置く天誅組のもとに、この報道が届くと、隊員の中に大きな動揺があったが、初志を貫徹すべく決し、主将中山忠光卿、総裁吉村虎太郎以下の陣容を整え、大和の義兵千余名を加えて、次の戦いに備えた。

高取城主植村家保は、那須信吾の説得により、一旦は、天誅組に協力することを約したが、京都の政変が伝えられると態度を翻し、攻撃をしかけて来た。
戦いに慣れない大和の義兵は、たちまち崩れ、虎太郎は横腹に傷を受け、身体の自由がきかない。<br>
それからの天誅組は、五条・天の川辻・風屋と南に転戦、さらに東に、そして北へと走り、1ヶ月の後、鷲家口(現、奈良県吉野郡東吉野村)に着いた。大和の志士も戦死、また離散して、隊員はわずか30名ほどになっていた。
25日、包囲する幕軍に血路を開くべく、那須信吾ら6名は、彦根・藤堂の軍に斬り込み、全員が壮烈な戦死を遂げた。
重傷の吉村虎太郎は、26日藤堂軍にかこまれ、雨の如く飛来する弾丸の前に「残念!」と叫びながら倒れた。

吉野山風に乱るるもみじ葉は
わが打つ太刀の血けぶりと見よ

残念大将と呼ばれ、その壮烈な最期をしのばせる、吉村虎太郎の遺詠である。27歳であった。
主将中山忠光は、辛くも鷲家口を脱出して大阪に逃れた。従う者わずかに7名であった。

村上恒夫著「坂本龍馬脱藩の道を探る」より
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