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那須信吾・那須俊平
那須信吾 (なす しんご)
1829〜1863

佐川村浜田宅左衛門、妻悦の二男として産まれる。梼原村郷士那須俊平の養子となり、その娘為代と結婚した。文久2年3月、坂本龍馬、澤村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、4月には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で脱藩し京都に潜伏した。翌3年、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で戦死した。
那須俊平 (なす しゅんぺい)
1807〜1864

梼原村に産まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、特に槍術に長じ、「土佐一の槍の達人」と称された。文久2年4月、養子の信吾は藩佐幕派に吉田東洋を斬って脱藩した。俊平も元治元年脱藩。長州の忠勇隊に入った同年、58歳の身で禁門の変に参加し、奮戦の末戦死した。
信吾は六尺(182cm)という長身で、力が強く、また足が速く
梼原から高知まで23里(90km)を1日で歩いたという
那須信吾は、文政12年(1829年)高岡郡佐川村(現、佐川町)に、藩士浜田宅右衛門の二男として生まれた。名を重民といった。6歳の時、父を亡くし、兄金治の教育を受けて育った。重民は長じて、六尺(182センチ)という長身で、力が強く、また足が速く、梼原から高知まで23里(90キロ)を1日で歩いたという。「天狗さま」と称されたともいわれている。
彼は医学を学び、高岡郡森村(現、仁淀村)で医者をしていた。しかし、ただの医者ではない。「私は国の病気を治癒するのがのぞみです」と広言していた。

この人物にほれこんだのが、梼原の郷士那須俊平(文化4年<1807年>)生)であった。俊平には男の子がなかったので、その娘為代の婿にと望み、これがまとまり、安政2年(1855年)2月、重民は那須家に入り、名を信吾と改めた。

信吾と為代の間に、二人の子供が生まれた。養父俊平とともに、自宅の横に道場を開き、子弟を教える一家には、平和な生活が約束されていたであろうが、幕末風雲の嵐は、この家を直撃した。勤王の志士の名は数多くあるが、親子でその名が残るのはめずらしい。

文久元年(1861年)武市瑞山は土佐に帰り、勤王党員を募った。信吾はこれに応じて血盟した。翌年3月7日、同郷の吉村虎太郎が脱藩して長州へ走った。その虎太郎から手紙が届いた。
「―――時勢切迫すると雖ども列藩因循義旗を挙ぐるものなし。今日のこと吾輩よろしく率先身を国に致し、臣子たるの本分を尽すべきの秋なり。願くは速かに同志を糾合して京摂の間に来会すべし。書外本間氏に接し謀る処あるべし」

そして、越後の浪士本間精一郎が那須信吾を訪ねて来た。精一郎は信吾あてと同意の、武市瑞山あての手紙を持っていた。精一郎を自宅に置いて、信吾は高知の武市瑞山に手紙を届けた。瑞山は土佐一藩勤王を主張し、本間精一郎にすすめられて脱藩しないようにと信吾に忠告している。本間精一郎はあきらめて、国外へ去って行った。

伊予の道を熟知する俊平が、龍馬と惣之丞の道案内
そして、信吾も途中まで同行した。


その直後の3月25日のことである。那須家に坂本龍馬と沢村惣之丞が訪れ、一泊した。そして時局を語り、勤王脱藩のことを告げた。これが信吾に重大な決心をさせることになったと考えられる。
その翌日の早朝、伊予の道を熟知する養父俊平が、龍馬と惣之丞の道案内をすることになった。そして、信吾も途中まで同行した。一行4人は
大越峠を越え、宮野々関を抜けて四万川へ入り、たぶん昼頃、国境の韮ヶ峠に着いた。信吾はここで龍馬らと別れ、梼原へ引き返している。俊平はなおも伊予路を案内して、喜多郡宿間村(現、五十崎町)まで行って引き返している。

那須信吾は、土佐藩の参政 吉田東洋を斬り、その足で脱藩をした。

月が改まった4月6日、那須信吾の姿は高知城下にあった。参政吉田東洋を斬るためである。<br>
それまで、武市瑞山は再三にわたり、土佐一国挙げて勤王運動を起こすべく進言をしていたが、参政吉田東洋は、「土佐は関ヶ原以来、徳川家に300年の恩願がある。」と主張して、瑞山の言葉に耳を貸そうとしない。ついに瑞山は、吉田東洋を殺すことを決意した。その決行者となったのが、那須信吾、そして大石団三・安岡嘉助の3人であった。(この3人の名が土佐勤王党の名簿にないのは、東洋暗殺の累を避けんがためであるといわれる)
4月8日の夜、吉田東洋は藩主山内豊範の進講を終え、いささか酩酊して城を出た。折から小雨が降っていた。城下の帯屋町で待ち伏せしていた信吾らは、「元吉殿(東洋のこと)国のためまいる」と斬りつけ、その首を取った。

目的を果たした信吾らは、その足で脱藩をした。その道は司馬遼太郎署「龍馬がゆく」の中に書いてあるところで、先に紹介した。すなわち大平(現、高岡郡越知町)を通り、御獄(横倉山)を越し、以前に住んだことのある森村から、高瀬村・別枝村(いずれも仁淀村)を過ぎ、道徳の関門から伊予の岩川(上浮穴郡柳谷村)に着き、ここに泊まった。実に30里(118キロ)を走り抜いたのである。

翌日は久万町に泊まり、さらに翌日、三津浜から船出して下関へ渡った。27日大阪へ上ったが、ここで4日前に、伏見の変で同志の吉村虎太郎・宮地宜蔵が捕らえられたことを知り、身の危険を感じた信吾らは、京都の久坂玄瑞をたより、長州藩、薩摩藩邸にひそんだ。

これまでの行動は、家族に密着にしていたのであるが、6月、潜伏先の信吾のもとに、養父俊平から便りが届いた。
「妻子のことはつゆばかりも心にかけず、更に奮って」と激励し、槍術皆伝の一巻が添えられていた。

ちょうどその頃起こった、同郷の掛橋和泉の自殺にも知れるごとく、養家からの厳しい詰責を予想していたであろう信吾は、養父の心情を察して、感激にむせび泣き、吉田東洋刺殺以来の消息を、長文の手紙にして知らせ、
「―――若し此地にて然るべき機会を得候わば、志を抱き快く相働き申すべく候。内の事は俗事万端、よろしく御配慮願い奉り候―――」
と、妻子のことを依頼している。その後も折にふれて、養父との手紙交換がなされている。
さて、京の町に潜伏すること一年、その間に土佐の国にも変化があった。吉田東洋亡きあと、武市瑞山ら勤王派の発言力が強まり、やがて吉村虎太郎らも赦されて、再び京都へ上って来た。
やがて8月、天誅組の旗揚げがあると、信吾も薩摩藩邸から出て、これに参加した。監察の役である。それからの足取りは、吉村虎太郎のところで書いたとおりである。9月25日、鷲家口において幕府軍との激しい戦闘があり、信吾は得意の長槍をふるって縦横に戦ったが、彦根藩士の弾に当たって倒れた。35歳であった。

那須俊平は、養子信吾が吉田東洋を倒して脱藩した時、

妻子をも捨つるためしは武士の
ならひと聞けど袖はぬれけり

と詠んで悲しんでいるが、無心に遊ぶ2人の孫を見ると、

残し置く2人の孫を力にして
老いぬることも忘れかるかな

と歌い、心を奮い起している。

信吾が死んだ翌年、那須俊平も脱藩をしてしまう

そしてやがては、俊平までもが国事に尽くすべく、脱藩をしてしまうのである。信吾が死んだ翌年、元治元年(1864年)6月6日のことであった。
脱藩した俊平は京に上り、第二伍長として長州の忠勇隊に入った。7月19日、禁門の変に、俊平は真木和泉・久坂玄瑞らとともに槍を構えて進撃し、越後・会津の兵を退けたが、やがて薩摩の兵が攻撃して来て、情勢は一変した。高齢の俊平は、不覚にも溝に足を取られたところを、越前藩士に討たれて死んだ。58歳であった。

村上恒夫著「坂本龍馬脱藩の道を探る」より
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