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脱藩事典 > 詳細-004 |
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■沢村 惣之丞 |
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沢村惣之丞 (さわむら そうのじょう)
1843〜1868
高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久2年春、坂本龍馬とともに脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕となって活躍した。慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散した。その奉行所を占領して市中の治安維持に当たっているとき薩摩藩士を誤殺、「この大事なときに薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と、従容として自決した。 |
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一度脱藩して、再び龍馬を伴って脱藩 |
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龍馬と一緒に脱藩した沢村惣之丞は、天保14年(1843年)土佐郡潮江村(現、高知市)の地下浪人の家に生まれた。(地下浪人とは岩崎弥太郎らのように、生活に難渋して、郷士の地位を百両くらいで売った浪人者をいう。龍馬の坂本家は、それを買った郷士の家である)長じて間崎哲馬の門に入り、その影響を受けて、尊攘運動に参画した。
文久2年(1862年) 20歳の惣之丞は、龍馬に先立って脱藩した。下関の白石正一郎方で久坂玄瑞・吉村虎太郎らと図るところがあり、脱藩したばかりの土佐に引き返し、3月24日、再び坂本龍馬を伴って脱藩した。
翌年、大久保一翁と面会した惣之丞は、「龍馬と並ぶ具現の士」と評価されている。この年、龍馬の紹介で勝海舟の門下生となり、海軍塾に入って、英語・数字・航海術を習った。
そして惣之丞は、名を関雄之助と改め、龍馬の片腕となって活躍した。この神戸海軍塾では、惣之丞は龍馬の甥(姉千鶴とその夫順蔵の長男)高松太郎と一緒に生活していた。一歳年上の太郎とは、親しい交わりがあったことであろう。
龍馬と惣之丞の脱藩の記録である「覚・関雄之助口供之事」
坂本龍馬と沢村惣之丞の脱藩の記録である「覚・関雄之助口供之事」以下くり返して書くことになるこの文書は、惣之丞から太郎の手を経て、その父高松順蔵に届いたとの推理も成り立つところである。
あるいは、直接惣之丞から順蔵へ伝えられた可能性も皆無とはいえないであろう。惣之丞のその後の足取りについては、あまり記録はないのだが、共に脱藩をした龍馬が、一年後に脱藩の罪が赦免になっているのをみると、惣之丞もその頃に赦免されていたのではないかと考えられる。4年後には、惣之丞の属した亀山社中は藩にも認められ、土佐海援隊と名を変えている。記録にはないが、惣之丞は土佐へ帰る機会があったかもしれない。そして、高松順蔵に直接、龍馬との脱藩の道を伝えたとも考えられる。
この研究の終わり、その概要を公表した後、「坂本龍馬とその一族」の著者である土居晴夫氏から手紙をいただいた。
そこには、「この「関雄之助口供之事」は、いつ、どこで書いたものか。どのようないきさつで順蔵の目に触れたのか、大いに興味を覚えます」という言葉に続いて、
「坂本家では、龍馬の手紙を高松家に回覧し、順蔵がそれを写し取ったことは明らかですから、この文書もそのようなルートで順蔵のもとに回ったのではないかと考えます。」
とある。高松順蔵の曾孫に当てられる同氏のご意見は、傾聴すべきものであろうと考える。
龍馬暗殺の翌日、惣之丞は京都へ急行した
慶応3年(1867年)11月15日、京都で龍馬が暗殺された時、惣之丞は大阪にいた。その知らせを聞いた彼は、翌日、高松太郎らと京都へ急行した。かつて5年前、手を取り合って土佐を脱藩した盟友の遺体と対面して、惣之丞はそのような思いがその胸を去来したことであろうか。
そして2ヶ月後、沢村惣之丞自身にも不幸が訪れた。慶応4年(1868年) 1月、彼は長崎にいた。
京都では鳥羽・伏見の戦いがあり、幕府軍は敗退した。この知らせを聞いた長崎奉行河津祐邦らは、職務を放り出し、あわてふためいて江戸へと逃走した。龍馬亡きあと海援隊を指揮していた惣之丞は、佐々木高行らと奉行所を占領して、市中の治安維持に当たっていたが、その折、薩摩藩士を誤殺してしまった。
薩摩と土佐にひびが入ってはならない。彼は責を負うて、いさぎよく自刃して果てた。26歳であった。
村上恒夫著「坂本龍馬脱藩の道を探る」より |
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