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脱藩事典 > 詳細-003 |
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■坂本 龍馬 |
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坂本龍馬 (さかもと りょうま)
1835〜1867
高知の郷士坂本八平、妻幸の二男として生まれる。江戸は千葉定吉の門に入り北辰一刀流を修めた。武市瑞山と交わり勤王党に血盟加入、文久2年春、同志澤村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として活躍したが、慶応3年11月15日、盟友中岡慎太郎とともに、京都近江屋で倒れた。 |
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龍馬は、28歳で脱藩し、維新に奔走する。 |
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もともと、土佐の郷士という低い身分の武士であり、世間から注目されていたわけではない。そして、28歳で脱藩し、維新に奔走するようになってからわずか5年にして、33歳の若さで死んでしまった。
その行動範囲はあまりにも広く、また単独行動が多かったために、その足跡をたどることは容易ではない。現在、姉乙女に当てたもの16通を初め、親戚・友人などに当てた手紙が130余通残され、わずかにその足跡をたどる資料となっているが、これと同数ほどあったと思われる。龍馬が受け取った手紙のほとんどは残っていない。彼はこれをどうしたのだろうか。他の多くの志士が、自らを顕示して後世に記録しているとき、龍馬は何も書き残していない。そのために、彼の生涯には多くの謎があり、それが今も話題となる。
その最もたるものは、龍馬暗殺の謎である。
龍馬は慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町蛸薬師近江屋で、僚友 中岡慎太郎とともに刺客に襲われた。龍馬は傷が深く、間もなく絶命したが、慎太郎は2日の後まで生命を保ち、相手が「こなくそ!」といって斬りかかったことなどを証言した。
「こなくそ」とは、伊予の人間が使う言葉であるということで、松山の出身 原田佐之助ら、新撰組が下手人であるとされた。後に、近藤勇は強く否定したが、疑いをかけられたまま殺された。このほかにも、後記する「いろは丸事件」に恨みをもつ、紀州藩の三浦休太郎であるとの説も流れた。
明治も30年代になって、今井信郎刺客説が自供の形で出ると、谷干城はこれを「売名屋」と決めつけて否定した。今でも多くの人が、さまざまな推理をして、諸説が飛び交っている。
次に謎とされているのが、龍馬脱藩の道である。
文久2年(1862年)3月24日、同志沢村惣之丞と高知を出た龍馬は、翌日、梼原村の那須俊平・信吾父子の家に泊まり、翌日宮野々関から伊予へ抜けたとされているが、それから先、4月1日に下関に現れるまでの記録がなく、その道が謎とされている。
このために、各地に脱藩の道の説が生まれ、主なものでも五つくらいある。それぞれ龍馬を慕うあまり、この道であってほしいという願望がそうさせたのかもしれない。それは口碑となり、本となり、また中には、石に刻んで立てられている。
先に書いた龍馬暗殺の日が、他人によって仕組まれた、龍馬の運命の時とするならば、脱藩の日は、龍馬自身が選んだ運命の時であると私は考える。
村上恒夫著「坂本龍馬脱藩の道を探る」より |
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